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【感想】STAGE GATE VRシアター『Defiled-ディファイルド-』【7/11昼・伊礼さん&三浦くん回】

はじめに

前回の舞台(『改竄「熱海殺人事件」』)からおよそ3ヶ月半。

久々の現場に行ってまいりました。

 

現場がなかった3ヶ月半のことはまた別の機会があれば書くことにしますが、3ヶ月半ぶり、この「新しい生活様式」の中で再び幕を上げるために様々な対応が行われたことは記録すべき重要な事実だと思います。

 

さて、今回は2001年にNYで初演された男性キャスト2人による舞台作品「STAGE GATE VRシアター『Defiled-ディファイルド-』」を観劇してまいりました。

 

実は初めて参戦するDDD青山クロスシアター。

こうした状況のため、VRでの配信映像を撮りながらの現地は通常200席の劇場にもかかわらず、その30%以下の座席数にあたる限定50席というプレミアムな観劇体験でした。

 

 

公演公式HP

stagegate-vr.jp

 

VRでも配信されますので是非ご覧下さい。

チケットはこちら(チケットぴあ)からどうぞ!

具体的な感染症予防対策について

公演公式の事前告知通りでしたが、簡単にまとめます。

  • 演者同士の距離を取る
  • 客席最前列とステージ上の間を2m以上あける
  • スタッフのマスク・フェイスシールド・手袋などの着用
  • 客席数30%以下、50席限定販売
  • 座席間隔をあけるため、左右を開けて着席
  • トイレやチケットもぎりなどの待機場所は1mごとのマーキングに沿って整列
  • 接触式体温計での計測→チケットもぎり(スマホの画面に電子スタンプなので直接手が触れない)→消毒→入場の徹底
  • 入り口からロビー、客席など各所に感染症予防対策の記録として記録用カメラの設置
  • キャスト同士も至近距離での会話一切なし、最後の挨拶も互いに距離をとってお辞儀のみ

 

対策が不徹底な場所では舞台でも飲食店でも関係なく感染者が出てしまっているといいますが、この作品は本当に徹底してリスクを最小限に抑えようという努力が見えました。

スタッフさんや運営の誠意に感謝です。

 

 

それでは、ここからはネタバレを含む内容に触れますので、ご了承いただける方のみ御覧ください。

 

 

感想など

あらすじ&キャラクターについて

ハリー・メンデルソン、図書館員。自分の勤める図書館の目録カードが破棄され、コンピュータの検索システムに変わることに反対し、建物を爆破すると立てこもる。目まぐるしく変化する時代の波に乗れない男たちが、かたくなに守り続けていたもの。神聖なもの。 それさえも取り上げられてしまったら…。
交渉にやってきたベテラン刑事、ブライアン・ディッキー。緊迫した空気の中、巧みな会話で心を開かせようとする交渉人。拒絶する男。次第に明らかになる男の深層心理。危険な状況下、二人の間に芽生える奇妙な関係。
果たして、刑事は説得に成功するのかー。 

(公式HP より引用)

 

図書館員 ハリー役……三浦宏規

刑事 ブライアン役……伊礼彼方

(敬称略)

テニミュ的には4代目跡部&初代佐伯

 

図書館員のハリーは伝統ある図書館の目録カードに価値を感じていて、それがコンピューターの導入でデータベース化されるにあたって破棄されることが許せないと考えている人物で、話からするとだいたい30代半ばぐらいのキャラクター。

また、母親がユダヤ人で、父親が無神論者、姉とは疎遠な様子。

彼自身は無神論者だと言いながらもユダヤ教の礼拝は「母親の命日だから」という理由で「息子として行っている」ことを強調します。

元婚約者の大学院の修士論文をハリーが書き、それを提出した翌日に婚約を破棄されるという過去も……。

ブライアンに行きたい場所を聞かれたときにはパリとイタリアと答えますが、イタリアには行ったことがあるといい、ブライアンの妻とも電話でその話をする場面もありました。

 

一方、ブライアンはハリーを諭すために派遣された、ハリーよりも年上で、妻子のあるベテラン刑事のキャラクター。妻がイタリア系で、自身はアイルランド系とのこと。夫婦・子どもとの関係は概ね良好で、妻の料理の腕を褒めちぎります。

そして、ハリーに行きたい場所を問われて自分のルーツであるアイルランドや妻の出身であるイタリアなどを挙げたり、妻がいつも自身を心配していることなど、自身の立場や仕事を半ば自虐的に話す姿には哀愁を感じさせ、ハリーに対しては人生の先輩や父親としての顔になることもしばしば。ただ、どこまでも現実的・実用主義的で、人生とはそういうものだ、現実を見ろ、というタイプの「大人」な人物です。

 

最期まで危ういほどに図書館を愛し、神聖な場所として崇め、どこまでも理想を求める姿は設定上は30代の人物でもどこか少年のようで、宏規くんの実年齢(21歳)とその美しいビジュアル、そして彼の武器である眼力や表情による表現の豊かさがとても良く生かされていたように見えました。

対峙する刑事を演じる伊礼さんは「いい声」と落ち着いた大人らしい佇まいが素敵な役者さんで、ハリーに優しさを見せたかと思えば刑事として厳しく言葉をぶつけるなど、様々な表情の切り替えが凄まじく、それも単なる声色の使い分けや表情の使い分けだけではなく、見えない部分、例えば場の雰囲気や纏う威圧感すら自在にコントロールするパワーがあり、圧倒されました。

感想など

今回上演されたのは、先程紹介した対照的な2人が爆弾の大量に仕掛けられた図書館で対峙する緊張感あふれる実に70分間ノンストップの会話劇。

 

アメリカで2000年5月に初演され、日本では2001年10月に初演された作品です。日本でも初演以来、何度か舞台として上演されています。

 

日本ではA.B.C-Z戸塚祥太くんが演じたものが有名かもしれません。

こちらはその戸塚祥太くんバージョンの記事です。

運営・劇場が同じなのでセットは同一のものだと思います

natalie.mu

 

今回はその朗読劇というかリーディングバージョン(台本を舞台上で見ながら演じる)です。

 

宏規くんのほぼ正面ぐらいの下手最前だったのですが、自分のすぐそばまでセットがあって、ステージから2mという距離は最前でも首が痛くならなかったので実はベストポジションかもしれないという発見がありました。

 

図書館を模したセットの至るところに爆弾が置いてあったり、ヘリの音や爆弾のランプが点滅したりと視覚効果・音響効果も迫力満点。

久々の劇場で聞く銃声やヘリの音には思わず肩が跳ねました。

 

個人的にポイントが高かったのは図書館の本棚の中に実際に1冊ずつ本(らしきもの)が並べられているところ。書割じゃありません。

 

キャストはステージの上手・下手に分かれてそれぞれ椅子に座った状態でのリーディング。

感染症対策ではありますが、対照的な2人の関係性を象徴する演出にもなっていました。

 

演出といえば、感染症の対策という部分で気を張りながら緊張感あふれる作品を観るということそのものも広義の「舞台装置」の一つだったのかもしれません。「現実」と「フィクション」の両者で緊張状態が働くことでその境界が曖昧になったかのような錯覚を覚えました。

 

キャラクターの部分でも触れましたが、台詞の端々にもそれぞれのルーツや「デートしないのはゲイだから?」という性的志向に関する問いなど、制作当時(2001年頃)からアメリカ社会で度々衝突の原因ともなる人々の多様性に関わる話題も登場するのがアメリカの作品ならではのエッセンスで、旅行意外で海外に行かない日本人である私としてはかなり新鮮に感じることもありました。

 

テーマ自体は重かったですが、理想を追求する若者と現実を見ろと諭す刑事の会話内容は至って普遍的な問題ともいえるので、観客は「どちらにでもなりうる」と思わされます。

もちろんハリーのやったことは犯罪にあたることですが、図書カード目録に拘る理由やデータベース化に反対する理由やそれに至るまでの状況には共感・同情できる部分もあって、ハリーはやり方が極端な例ではあるものの、伝統的で神聖なもの守っていきたいという純粋すぎる動機で、誰しも理想にとらわれるとその衝動で事件を起こしかねないと思わせられる絶妙なさじ加減でした。

反対に現実を見ろと訴える刑事は自分が失ってしまった理想や夢にとらわれる若者に苛立っているようにも見えて、私たちが幼い頃に「あんな残念な大人にはなるもんか」と思っていてもいつかそうなってしまう、先輩ヅラ・保護者ヅラしてしまう哀しさに通じるものがあるような気がしました。

 

ハリーの理想主義的な考え方や刑事に指摘された「君は頭がいい」けれども「君の頭の中で生きている」、すなわち現実ではなく思い描いた自分自身の理想の中に生きているという指摘は刺さりました。

ハリーはたしかに頭がよく、図書館にまつわるうんちくをスラスラ楽しそうに披露する場面では生き生きとしていますが、刑事から「ガールフレンドは?」「家族は?」といった質問をぶつけられるとあからさまに苛立ち、挙句の果てには刑事から「毎日仕事で疲れて帰って、家族の体調を気遣ったり子どもの病気の面倒を見たりすることこそが現実なんだ(ニュアンス)」と怒鳴られてしまいます。

自称「一匹狼」のハリーですが、頭の良さ故に自分の理想にかなわないものを拒否したりバカにすることで自分を守ろうとする弱い側面もあるのがリアルでした。

 

結局ハリーは連行されることに承諾したふりをして刑事を外に出し、待ちきれなくなった警察に実力行使をされて射殺されるというあっけない最期を迎えます。

撃たれて椅子に崩れ、最後の力を振り絞って目的を遂げ、そのまま目を閉じていく間に流れるアヴェ・マリアが「無神論者だ」とのたまったハリーに捧げるにはあまりに皮肉で、最後まで辛かったです。

リーディングバージョンなので明確にはわからない部分もありますが、銃声や建物が崩れ落ちていく音が入っていたのであれはつまり図書館とハリーが心中したということになるのでしょう。

 

おそらく見る人によってどちら側に感情移入しやすいかはかなり変わると思います。

刑事の言う「現実」に疲弊している人であれば刑事に肩入れしやすくなると思いますし、反対に私のような学生や自分らしく生きることが出来ている人にとってはハリーのほうが共感できるかもしれません。

 

ちなみにそんなハリーが守りたかったのはこんな感じのものです。

readyfor.jp

 

ハリーにとっては残念かもしれませんが、今はどこもオンラインデータベース化によりカード目録が保存されていたとしても実用されることはなくなっているようです。

ハリーはこれを地図だと言うのですが、今も図書館では資料を探すための手引を「パスファインダー(=道標)」という言葉で呼んでいるので、図書館における地図という考え方自体は残っているとも言えるのかもしれません。

 

三浦宏規という役者について

2月のテニミュぶりの宏規くん(3月〜6月のミュージカルはチケットを取れていましたが全部中止になったため)は一皮むけた、という印象が強かったです。

私も宏規くんのFCに入るという肚を決めたのは先日のことですが……。

 

テニミュも一通り終わり、その後ノンストップで稽古に入り、主演を務めるも半ばで中止になるなどの様々な経験をしたこともあってかはわかりませんが、今まで以上に頼もしくなった気がしました。

個人的な所見ですが、彼は役に入るといつもの三重弁訛りのふわふわした年相応のお茶目な人柄から一変するので、わかりやすく憑依型の役者さんだと思っています。

また、彼は顔のパーツの大きさも強みで、それを活かしたくるくると変わる表情でのお芝居や跡部様のときに見せた圧倒的な眼力も魅力の一つだといえます。

バレエ経験者らしくダンスでの見せ場も素晴らしいですが、些細な立ち居振る舞いからもキャラクターを感じさせる表現力をもっていて、天性のものがあるようにも見えます。

2.5次元でのお芝居ももちろん好きですが、こうしたリーディングスタイルの作品だと彼の本当の強みや魅力がよくわかったような気がしました。

特に表現力の豊かさは眼を見張るものがあり、感情の変化が大きい役でも自然で、今まで以上に説得力のあるお芝居をするようになったなと思いました。

素人の意見ですが、本当に彼のこれからが楽しみです。

 

Twitterまとめ

 

軽く解説しておくと私は一応学生で司書課程を履修しておりまして、その関係で分かる部分や考えさせる部分があったという話です。

 

 

 

おわりに

 

3ヶ月半ぶりの劇場はものすごくエネルギーと集中力を使いました。

でも、この疲労が心地良いからやめられない。

 

お芝居を観るって、現場にいけるって、役者を生で観られるってほんっっっっっっっっっっとうに贅沢だったんだなと、今更ながらありがたみを噛み締めています。

 

映像が生のエンタメの代替になるという発言をした政治家もいたようですが、それは絶対にありえません。

映像と生のエンタメが共存共栄できる、互いの強みを活かした展開を行う社会は大歓迎ですが、両者が別物であることを忘れてはいけないと思います。

その場の空気感、客の反応、役者のコンディション、日を追うごとに変わる芝居や演出や照明のアップデート、全てが生の舞台ならではの面白さです。

大変なことはたくさんありますが、一生懸命工夫してどうにか幕をあげようとしてくれている人達がいることを正しく伝えるために筆を執っています。

 

どうかこれからたくさんの舞台やライブと言った生の現場が復活しますように。

もちろん誰一人感染者を出しませんように。

 

そう願っています。

 

まずは再来週の現場の無事を祈って。

 

お疲れさまでした。